丸岡城・天守の完成年が話題に! 信長の戦略も読み解ける魅力

北陸唯一の現存天守、丸岡城の天守。

 天正3(1575)年、越前の一向一揆を制圧した織田信長は、柴田勝家に越前8郡を与えて北ノ庄城(福井市)の築城を命じ、同時期に勝家の甥にあたる勝豊に豊原寺を与えました。

豊原寺は、かつての一向一揆の拠点で、信長が陣所とした場所。信長は北ノ庄城と豊原寺を北陸防備の拠点とし、くすぶる一向一揆に備えようとしたようです。

城を築くのにふさわしい好立地

 天正4(1576)年頃、豊原寺から移転すべく、勝豊が築いたのが丸岡城です。織田軍の次なる敵は、加賀の一向一揆。天正5~8(1577~1580)年、加賀の一向一揆や上杉謙信との戦いを繰り広げた織田軍の軍事情勢は厳しいものでした。謙信の能登への侵攻を受けて加賀へ出陣するも、手取川の戦いで大敗。その後、加賀一向一揆との戦いが本格化していきます。

 丸岡城は、こうした政治的・軍事的背景の中で、防備と攻撃態勢を強化すべく築かれたのでしょう。丸岡城は豊原寺から4キロほどしか離れていませんが、坂井平野を望む独立丘陵にあり、城を築くのにふさわしい好立地です。大規模で計画的な城や城下町の建設も可能でした。

2人めのキーマン、初代丸岡藩主の本多成重

 柴田氏の後は、丹羽長秀の家臣・青山氏、結城秀康(家康の次男で初代福井藩主)の重臣・今村氏などを経て、慶長18(1613)年に本多成重が福井藩の付家老として4万石で城主となりました。この本多成重が、勝豊と並ぶ丸岡城のキーマンといえます。

 成重が城主を務めていた寛永元(1624)年、福井藩から丸岡藩が4万6300石で独立したのです。成重が丸岡藩の初代藩主となり、丸岡城の新たな歴史が刻まれていきました。

本多氏がお家騒動により改易すると、元禄8(1695)年からは5万石で有馬氏が城主となり明治維新まで統治しました。明治時代になると、丸岡城も全国の城と同様に廃城となり、天守以外の建物は取り壊され、堀は埋め立てられてしまいました。

天守は昭和23(1948)年6月28日に発生した福井地震により倒壊しましたが、昭和27(1952)年から4年がかりで修復工事がされ、現在に至ります。

「現存最古」の天守か? 

 現存する丸岡城の天守は、建築上の特徴などから、天正4年に柴田勝豊が築城した頃の創建とされてきました。しかし一方で、瓦に本多氏の家紋である三つ葉立葵紋が刻まれていること、最上階に新しい建築様式も見られること、慶長18年の絵図に描かれていないことなどから、本多成重が城主となった慶長18年以降の再建とする説もあり、創建年代が明らかになっていませんでした。

 しかし、2015~18年度に行われた本格的な学術調査により、現存する天守は柴田氏時代ではなく、本多氏時代の寛永期に創建されていた可能性が極めて高くなりました。本多成重が城主を務め、丸岡藩が立藩した頃の創建と推定されます。

一般的に、元和元(1615)年の武家諸法度公布後は、城の改修や修繕にも幕府の厳しい規制がかかり、天守の新築は特例に限ると考えられています。創建年代の解明は、全国の城の歴史を考える上でも大発見。寛永期に丸岡城の天守が造営されていた事実はかなり興味深いところです。

父は“三河三奉行”として知られる家康の重臣

 成重は福井藩2代藩主・松平忠直の後見役、付家老として家康から越前に派遣された人物です。成重の父・本多重次は三河三奉行のひとりに数えられる家康の重臣で、成重自身も幼少時、結城秀康(於義丸)が豊臣(羽柴)秀吉の養子となった際に大坂へ同行しています。1623年に忠直が失脚したのを機に、福井藩から離れて初代丸岡藩主として独立した経緯があります。

 丸岡城天守の創建はちょうど丸岡藩が成立した時期と重なりますが、全国の例をみると、必ずしも立藩を機に天守を築くわけではありません。犬山城(愛知県犬山市)の天守を増築した成瀬氏が、尾張藩の付家老だったことも興味深いところです。

丸岡藩の成立と城の整備のかかわりは今のところはっきりわかりませんが、成重の存在と丸岡藩の成立が天守造営の背景にあったことは間違いありません。文献上、成重が天守を造営した記述はありませんが、成重による城の整備や天守の建設は十分にありえそうです。

築城時に天守はあったのか

 天正期の丸岡城に天守があったかは判明していませんが、現在の天守台は石材の加工痕などから慶長5(1600)年以前、柴田氏時代もしくは青山氏時代の築造である可能性が高いと推察されています。天守台があるならば、おそらく天守も建っていたのでしょう。慶長期に描かれた「越前国絵図」にも、三重の天守が描かれています。

 近年の発掘調査では、天守台の南面の地下から張り出し部の石垣が見つかり、少なくとも現在のような独立式ではない天守の構造が明らかになりつつあります。今後の解明が楽しみなところです。

信長が開発した最新式の城を取り入れた?

 築城年の天正4年は、信長が安土城(滋賀県近江八幡市)の築城を開始した年です。全国の城に天守や石垣が導入されるのは信長の城がはじまりで、安土城は実質的にその代表例とされます。

 信長が開発した当時最新式の城を、近しい家臣の柴田勝家、その甥の勝豊が導入していた可能性が高いといえます。天正期に丸岡城が築城されたという事実は、注目したいところです。

今回の調査で確認された、天守台の床下空間も興味深いところです。2尺5寸(75センチ)ほどしかなく、姫路城(兵庫県姫路市)の天守のような穴蔵(地階)ではありません。勝家や勝豊と同じく天正4年頃から信長の命令で金森長近が築いた越前大野城(福井県大野市)、天正13(1585)年から長近が改修した松倉城(岐阜県高山市)、天正10(1582)年以降に森氏が築いた美濃金山城(岐阜県可児市)でも、近年同じような地下空間が確認されています。

類似例を含めて検討することで、柴田氏時代の丸岡城天守の姿が浮かび上がってくるかもしれません。

 

引用元:文春オンライン
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200310-00036486-bunshun-life

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