上野東照宮は江戸時代のままの境内 日光にも見劣りしない

金色殿と称された社殿

“城オタク”を自認する香原斗志が東京に今も残る江戸期の建築物をガイドする。第5回は前回から引き続き、徳川家ゆかりの建物を巡る。

奇跡的に残った金色殿

前回、上野の寛永寺に触れた以上は、上野東照宮も紹介しておきたい。東照宮が東照大権現、すなわち徳川家康を祀る神社であることは、周知のことだろう。東照宮といえば、日光や久能山のものが有名だが、実は上野の山にも、決してそれらに見劣りしないものがある。

家康らが帰依した天海僧正が寛永寺を開山した際、境内には多くの伽藍や子院が建てられた。上野東照宮もそのひとつとして、寛永4(1627)年に東照社として創建され、正保3(1646)年に朝廷から「宮」号を授かって東照宮となった。その5年後の慶安4(1651)年、三代将軍家光が、日光まで参拝に行けない江戸の住人のために日光に準じる豪華な社殿を、という趣旨で造営替えをしたといわれ、その社殿がいまも残っているのである。

老中や大老として秀忠や家光を補佐した酒井忠世が、寛永10(1633)年に奉納した石の鳥居をくぐって、社殿を造営替えした際に諸大名が奉納した200余基の石灯籠が並ぶ参道を進む。50余基の銅灯篭も壮観で、やがて金色に輝く唐門にたどり着く。金地の周囲に極彩色が施され、左右には昇り龍と降り龍の手の込んだ彫刻がほどこされている。これは左甚五郎作と伝えられている。また、周囲の透かし塀の装飾や色彩も手が込んでいる。

左脇から社殿に入ると、その豪華さに目を奪われる。拝殿、幣殿、本殿が順に並ぶ権現造りで、「金色殿」と称されたといわれるだけのことはある。全体が金色に輝き、軒下には極彩色の彫刻がほどこされている。日光の東照宮に負けず劣らず豪華だが、調和がとれ、品位が保たれているからすごい。

寛永寺の伽藍の大半が灰燼に帰した上野戦争でも火の手がおよばず、関東大震災でも倒壊せず、太平洋戦争では社殿の裏に爆弾が投下されたものの、不発弾だったため被害を受けなかったという。まさに奇跡の賜物として、江戸初期の権現造りの粋が上野の地に残っているわけだ。いまの輝かしい色彩は、2013年に終えられた修復によって蘇ったもので、まさに見ごろである。社殿はもちろんのこと、唐門、透かし塀、銅灯篭、それに鳥居も、重要文化財に指定されている。

破壊を免れた五重塔

参道に敷かれた石や灯篭群も含め、境内全体で江戸時代の光景を満喫できる上野東照宮。前述のように、もともとは寛永寺の一部だったが、明治政府の神仏分離令によって独立させられた。その際、浮いてしまった建物があった。参道を唐門に向かう途中、右側に眺められる五重塔である。

これは寛永8(1631)年、老中土井利勝が東照宮の一部として寄進し、同16(1639)年に焼失したが、すぐに再建されていまに至っている。「浮いてしまった」と書いたが、神仏分離令の下では、釈迦の骨である仏舎利を治める塔が神社の境内にあることは許されなかったのだ。当時、全国に神社所有の五重塔は珍しくなかったが、その多くは破壊されてしまった。しかし、上野東照宮は宮司の機転で五重塔を寛永寺に寄進し、その名も寛永寺五重塔と改めたため、取り壊しを免れたというわけだ。

しかし、寛永寺にしてみれば、寺から距離があって管理しきれず、昭和33(1958)年に東京都に寄付した。このため、現在は上野動物園の敷地内にあって、動物園に入園しないと近寄ることはできないが、たとえ動物を見るヒマがなくても、ぜひ五重塔は間近で見てほしい。全層が和様で、屋根は4層までが本瓦ぶきで5層目だけは銅瓦ぶき。朱で塗られ、初層の四辺の角には龍の彫刻が、正面の緑色の連子窓の上にある蟇股には、十二支の彫刻が極彩色で施されているなど、なかなか芸が細かい。

もちろん国の重要文化財だが、いまは神社からも寺からも切り離され、孤独のまま立ち続けているのは気の毒でならない。いまは神仏分離もへったくれもないのだから、ふたたび東照宮のお世話になることはできないのだろうか。

 

引用元:GQ JAPAN
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200304-00010010-gqjapan-bus_all

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